石田さんへの応答

科学者が常に科学的に思考しなきゃならんとは、石田も考えてない。けど、普通の生活の中で、普通の市民が科学的に思考すべき場面はたくさんある。
またトラックバックスパムをふたつ削除した - 石田のヲモツタコト

トラックバック、どうもありがとう。多少、表現は異なるけれども、

普通の生活の中で、普通の市民が科学的な知見も取り入れた方が良い場面も多い

であれば、同意だ。でなければ、「科学の社会的意義って?」ということになってしまうからだ。問題はそこではない。「<他人>が科学的思考をしていないことをあげつらう」ことの問題である。<自分自身>がここでは科学的知見も取り入れようという行為の問題でもない。その場合は、<他人>の間違いをあげつらうのでなく、科学知見を提供すればいいだろう。「マイナスイオンの健康効果は(科学としては)確認できていない」というのは科学情報の一つではあるだろう。しかし、それだけのことであるのならば、科学的な間違いをあげつらう必要はない。そうではなくてビジネスの倫理を問うているのだというのなら、それも構わないが、しかし、それは科学の問題ではなくビジネスや消費者教育の問題である。つまり、科学的に間違っていることを論難するのでなく、消費者に損害が発生していることを問題視すべきだと室井は考える。また、損害を及ぼすか否かは科学的判断を超えた価値判断に属している。もちろん、科学者というのは個人の一属性にしか過ぎないことも、室井は理解している。

【追記】『世の中の多くの人が思ってない』ということは、もちろん室井も同意している。しかし、ニセ科学論者達はどうだろう?
それから、<義務教育>程度の科学的知見に限ってしまうと、取り入れた方が良い場面も限定されることだろう。「マイナスイオンの健康効果は(科学としては)確認できていない」という科学情報は、今は義務教育で教えられているということなのだろうか?義務教育に取り入れられるにしても、それは科学教育というより<消費者教育>の中の一科学情報だろう。マイナスイオンという言葉が流行る前に、義務教育を終えてしまった人達も多いはずでは?

【追記―2】あり得べき誤解を避けるために。理科の授業は科学の場であると室井は考えているが、道徳の授業は科学の場であるとは考えていない。これは普通の判断であろう。

【追記―3(ブックマーカーさんへ)】法に従うこと、あるいは、あえて反することは、<科学>の問題ではなくて<倫理>の問題ですよ。

【追記―4】義務教育程度の判断<のみ>で、科学的でないということが識別可能なのであれば、そもそもそれは「ニセ科学」と呼べないだろう。その意味で、水伝をニセ科学と呼ぶのは疑問がない訳ではない。むしろ、オカルトや(擬似)宗教とする方が適当でないだろうか。しかしながら、小学生にとってはニセ科学なのかもしれない。いずれにせよ、水伝をニセ科学として批判するのは適当でないように思う。(擬似)宗教教育として批判する方が現実に即している、と室井自身は推測する。